8月26日(金)   ほんの少し雨粒を感じましたが、ほぼ夏空が回復し、最高気温も32℃。

陽子線照射は36回目です。いよいよ来週(月、火、水)3回の治療を残すだけになりました。
今日は、菅直人首相が退陣表明をするというので、トレーニングジムを休み、病室のテレビでその模様を見ていました。民主党両院議員総会での菅さんの挨拶は…
@党内事情やねじれ国会など環境は厳しかったが、やるべきことはやった。A新しい代表を選ぶなかで国民に信頼される党になり、また、ひとつの方向性を出したときはみんなで進めていく党にしてほしい。B退任後も、原発に頼らなくてもやっていける社会の実現をめざして、一政治家、一市民としてやっていきたい。
そんな内容の菅さんの話を聞きながら、支持率低下と「やめろ、やめろ」の四面楚歌の中、政権を維持してきた精神力を、古い友人としてねぎらいたいと思いました。厚生大臣当時に会った折、「長谷川さん、官邸を握るってすごいことですよ」と、菅さんは言いました。自分が辞めた後の小沢政治の復権、原子力村の巻き返しを考えれば、権力を手放さずにがんばれるだけがんばろうとしたのだと、私は推察していました。
もっとも、「脱原発依存」をはじめ、期待された政策に対して中途半端であったことは否めません。きっと反対勢力の厳しい包囲網があったのでしょう。退任後「一市民としてやっていく」と挨拶を結んだ菅さんに、また期待をしようとも思いました。
※私が菅直人さんとはじめて会ったのは、1976年の8月。菅さんが29歳、私は34歳でした。同年2月に発覚したロッキード事件で7月に田中角栄元首相が逮捕され、日本中に金権政治への怒りが渦巻いていました。その2年前に市川房枝さんを担いで参議院選挙の事務局長を務めていた菅さんは、「批判するだけではダメ、自分たち自身が参加して政治を変えるべきではないか」と考え、自民党型の金権選挙ではない新しい選挙スタイルのモデルをつくり、「東京と大阪で三、四人ずつ出そうか」(菅直人『日本大転換』光文社、1996年)と思いたって、堺市で地域住民活動をしていた私を訪ねてきてくれたのです。若者仲間と一緒にわが家に泊まった菅さんと一晩語り明かしましたが、私の考えは、地方政治をとおして菅さんと同じ思いを実現するということでした。結局、その年12月の衆院選には菅さん一人が立候補しました。

▼写真中=市川房枝さんのお別れ会の後、路上での立ち話。菅さん34歳、長谷川39歳。(1981.2.1)
▼写真右=団塊世代の社会参加をめざす運動の一環…軽井沢での団塊塾合宿。(2006.7.29)