3月10日(土)   午後から明るい日差し。気温は10℃でしたが、コートなしで外出しました。

臨海コンビナートの排気ガスによる大気汚染で、堺市が「公害のまち」と呼ばれたころ、臨海企業のひとつ「ゼネラル石油精製」の労働組合が、住民と共に反公害運動を闘いました。その「ゼネ石労組」の執行委員長だった小野木祥之さんが4日に逝去され、今日、千葉県我孫子市でご葬儀がありました。
1月にいただいた寒中見舞いのお便りで、がんと闘っておられることを知り、春には激励に…と思っていたのに、それほど進行していたことを知らず、申し訳ありません。来週早々の健康福祉委員会やその後の予算委員会総括質疑などを控え、葬儀参列は叶いませんでしたが、お悔やみの言葉を送りました。

▼いつも非権力の側に身を置き、時代を切り開こうとした生涯
下の写真は、私が初めて市議選に挑んだ1975年統一地方選の前、リーフレットに掲載する推薦者の写真として、組合事務所前で撮影したものです。その右は、小野木さんが1991年に上梓した「偏芯してますか、ご同輩」(筑摩書房)。「はじめに」に次のような一文があります。
「私事をもうしあげれば、わたくしは二十歳のころから三十年間、労働組合の運動に切れ目なくたずさわってきた。といっても、つねにナマの戦場の空気を吸いながらであって、労働官僚とよばれる高い地位につく僥倖にはいちども恵まれたことがない。だがそのおかげで、つねに労働現場に生起するあれやこれやの些事にもまれながら、そこから日々の仕事に労働者としてどう立ち向かっていくのがいいか、じっくり思案をめぐらせることができた」
退職後、小野木さんは「マレー半島ピースサイクル」運動などにも取り組み、しばしば報告書を送ってくれました。タイからシンガポールに向け、日本軍の進撃跡を自転車で走り、現地の被害者を慰霊しながら日本の戦争責任を追及するという市民運動です。いつも、非権力の側で時代を切り開こうとしたその生涯は、私が追いつけない理想の生き方のように思えます。

●関西がんチーム医療研究会の市民講座
がんとの闘いで生涯を終えた小野木さんを偲びながら、午後、大阪科学技術センターで開かれた市民公開講座「これからのがん診療はこうあってほしい」を聴講しました。