8月15日(土)   27.5℃〜36.0℃。終戦記念日。75年前も、猛暑でこの日を迎えたのか?

先日、明石市に墓参に行った際、帰り道で国道2号に面した生家の前を通りました。
明石の市街地が夜間空襲に遭ったのは、1945年7月7日。すでに3度目の空襲で、4歳だった私は山地にあるお寺に疎開し、疎開先から焼ける市街地を見ていた記憶がかすかにあります。
また、終戦で生家に戻ったとき、わずか100メートルほどのところで生家は延焼を免れていたこと、しかし、油脂焼夷弾(19本×2)を集束する弾頭(ノーズブロック)が生家の屋根を突き破って落ちており、これが本体だったら全焼していただろうなどとの家人の話も聞き覚えています。

小学校2年生まで暮らした生家はすでに建て替わっていますが、東隣の住宅は当時のままで残っています。
この家に住んでいたMさんは幼なじみの同級生で、小学校入学時、Mさんを含めて父親が戦死したクラスメイトが大勢居ました。

余談ながら、私たち家族が大阪に転居後もM家との交流は続き、学生時代に知り合った江田五月さん(元参院議長・法相)と夏休みに会談する場所として使わせていただいたこともあります。岡山に帰省中の江田さんと大阪に住む私が、「中間点で会おう」と勝手に決め、Mさんご一家には大変な迷惑をかけました。

ちなみに、ウエブサイト「都市空襲」によると、7月7日の明石空襲で投下された焼夷弾は975本。全半壊9179戸、罹災者3万6410人、死者362人、重軽傷者190人の被害が記録されています。

※都市空襲 https://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/kusyu.htm

また、同サイトには、明石空襲の3日後、7月10日の未明、「B29の編隊100数機が大阪湾から堺市街南西部に侵入、約一時間半にわたり油脂爆弾・黄燐焼夷弾を投下、大浜・龍神・宿院一帯が猛火に包まれ、市の中心部は一夜にして焼野原となった」と記されています。
そしてさらに、「当時、南海本線『堺駅』付近で交差していた阪堺軌道『龍神駅』のガード下では、猛火に逃げ場を失った地元住民と電車の乗客とでひしめき、そこへ炎と煙が風に煽られ煙突のように吹きぬけ一瞬にして300人以上の人が焼死した」と続き、堺空襲の死者・行方不明者約1860人、焼失家屋約1万9000戸と記録。

「戦争への道は、絶対に歩んではならない」と、改めて心しました。