地域活動再開の“ワケと決意”
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3.政治活動への参加
 地域活動の仲間たちに推されて37歳で堺市議となり、14年間を務めました。議員活動では「ただの市民の政治参加」を標榜し、保革を問わない、市民意識とかけ離れた特権感覚との闘いから始まりました。議会公開、情報公開、住民参加をめぐる議論を繰り返し、日本で初めての「政治倫理条例」も直接請求の運動で誕生させることができました。また、議員としての基本的役割である市政監視に努め、不適正な行政執行にメスを入れ、さらに、インフルエンザ・ワクチン集団接種の中止、「体罰防止マニュアル」や「放射線施設災害警備活動マニュアル」の作成など、いくつもの改革を実現しました。(詳しくは、長谷川俊英ホームページ「14年間の市会議員活動」をご参照ください。)
 1993年の総選挙では、「自民党政権に代わる新しい政権を!」という大きなうねりのなかで、江田さんや菅さん、それに細川護煕さんなどに誘われて立候補を試みましたが、力不足で皆さんの期待に応えることができませんでした。いまもなお、一緒に運動に参加し、お力添えをいただいた方々に申し訳ない気持ちを抱き続けています。
 幸いにも、「地方議員をプロ化すべきではない」との信念の下、議員就任後も「公務休職扱い」となっていた元の職場に復帰したため、私自身の生活には不安を覚えることなく過ごさせていただいています。また、勤務の傍ら、政治活動を継続すべく「都市政治研究所」を創設し、各地に増え始めた、いわゆる「市民派議員」の皆さんとの勉強会や政策づくりに励んできました。
4.人生の熟年期を迎えて
 今年61歳になりました。勤務先の定年は65歳の年度末なので、あと4年8か月の職場は確保されています。ただ、友人たちの多くが60歳で長年勤めた職場を去り、新しい人生を模索しているなか、このまま安定した仕事に身を委ねているだけでいいのかと思うようになりました。
 総選挙の敗北で政治の現役から退いたのは、「プロ化すべきではない」という思いから、いったん「ただの市民」に戻って、ともすれば薄れがちだった“市民感覚”をもういちど研ぎ直したいと考えた結果でもありました。あれから、9年を経過しました。
 この9年、世の中は大きく変わっています。ただ、「政治がよくなった」とはどうしても思えないのです。
 堺市議会では、あれほど話題を呼んだ「市民参加の海外視察」が、私が居なくなってすぐ廃止され、議員だけの視察旅行が残りました。そして、テロ騒ぎで延期していた旅行を年度末ぎりぎりの出国で予算消化するなど、市民意識を思い量らない特権気分が依然として蔓延しているようです。その一方、終盤国会では自民党内にさえ論議を呼んだ「住民基本台帳ネットワークシステム」の実施をめぐって、人権やプライバシーの観点からの議論は皆無だったという議会の状況を聞いて驚きました。
 これでは誰もが「市議会なんてもういらん!」と思い始めることでしょう。市の幹部職員の間にさえ、緊張感を欠いた議会審議に危機感を抱いている人がいます。何人かの方々から、「あのころは指摘が厳しくてつらかったけど、お陰で業務の向上につながりました」との声を聞きました。
 民主党の党首をめざし、将来政権を担う決意でいる菅直人さんと初めて会ったのは、お互いに議員になる前、30歳代(菅さんは20歳代)のときです。「国政へのチャレンジ」を熱く語る菅さんに、私は「地方政治の場でやってみたい」と言いました。将来の政権獲得のため「政党結成」に踏み込んだ菅さんと、あくまで「無所属市民」に立脚する私とのその後の歩みの異なりもここにあります。
 ともあれ、これから何年か、いよいよ最終節を迎えることになる私の人生を、初心どおり、なんらかの形で、直接、地方政治に関わらせてみたいと思っています。
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