《2009.4.4》
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4月4日(土)朝からの曇り空が、昼前には雨。花見を予定された方にはあいにくでした。
ノーベル物理学賞を受賞された益川敏英さんの講演会が堺市地場産業振興センターで催され、聴きに行きました。「先着800人、午後2時開会」ということだったので1時20分ごろ会場のイベントホール入口に着くと、既に入場制限。「あと41人」と宣告された列に並んで28番目に入り、会場脇の準備スペースに設けられたテレビで聴講することになりました。モニタースピーカーの音割れがひどく、講演内容の半分程度しか理解できないのに、誰もが辛抱強く聴き入っておられたようです。それでも少しずつ席を立つ人が出始めたので、講演に一区切りが着いたところでホールに移動。入場者からの質問を主催者がセレクトして益川さんに尋ねる場面は、会場内の壁際で聞くことができました。
●益川さん=プロイセンの軍事学者・クラウゼヴィッツは「戦争は外交の延長」だと言った。話し合いで答えが出ないときに自分の利益を相手に押しつけるため手を出すのが戦争だ。青春時代にベトナム戦争があった。植民地統治の復活をめざしたフランス軍がディエンビエンフーで負けて撤退する際、南北統一のための選挙をすることになっていた。ところがCIA(アメリカ中央情報局)の工作員だったゴ・ディエン・ジェムが南ベトナム大統領となり、ベトミン(ベトナム独立同盟会)狩りを始めたため、1959年に南ベトナム民族解放戦線が生まれた。
▼問い=益川先生は、「九条の会」のアピールを広げる科学者・研究者の会(九条科学者の会)のメンバーですが、憲法9条についてどのようお考えですか。
このような抵抗運動まで反対はしないが、国家と国家がやる戦争は嫌だ。自国の経済利益を他国に押しつける戦争は怖い。私は臆病者だから、焼夷弾が屋根を貫いて床下まで達した恐怖を覚えている。「もし不発弾でなかったら…」と思う。
1946年(終戦翌年)の5月1日、小学校に入学した。自分の住むまちでは、開校準備が間に合わなかったから、小学校は5月から始まった。以後、今日まで多くの師や友を得た。その一人である沢田昭二が広島の原爆で母親を助け出せなかったことを書いている。中学1年生だった沢田は、8時15分より少し早めに家を出て原爆に遭った。様子を見に帰った家は倒壊し、母が下敷きになっている。隣家からの火が燃え移ろうとしており、母は「自分は助からないから逃げろ」と沢田に言った。実に乾いた文章だ。「どうしてこんなに淡々と書けるのか」と思ったが、感情を入れたらきっと書けなかったのだろう。それほどすさまじい体験をした人がいる。
観念論で戦争を語ってはダメだ。ひとたび戦争が起これば、非人道的なことが進行する。ソマリア沖まで軍隊を持っていけるのに、9条にいったい何を付け加えたいのか。改憲論者は何を求めているのか。憲法学者の長谷川正安先生は「条文を解釈しても分からない」と言った。周辺法を見なければいけない。
“憲法解釈”で何でもできるようになった今、唯一「交戦権」がないだけだ。不審船が現れたとき、20ミリ機関砲を使えば100トン程度の船なら沈められる。でも、それはできない。改憲を試みる人たちは自由に戦争ができる体制を作りたいだけだ。ボクは嫌です。
●【備考】益川さんは1940年2月7日生まれ。1941年6月に生まれた私が小学校に入ったのは、2年遅れの1948年でした。疎開先のお寺から空襲で焼ける市街地の空をながめ、終戦後に戻ってみると自宅の50メートル手前までが焼け、わが家にも屋根を突き抜けた焼夷弾の部品が残っていました。級友の何人かは父親が戦死し、闇市に出かけると物乞いをされる傷痍軍人の姿を見ました。益川さんほど鮮明ではありませんが、戦禍を体験した者のひとりとして、「戦争は嫌だ」に同感します。