北花田駅③④出入口で議会報告。この駅前には初参加のボランティアメンバーが「よく受け取って下さった」との感想でした。
さて、先日の朝日新聞堺支局OBの会を欠席されたT元記者が幹事のO元記者を介してメッセージを寄せてくださいました。多分に気恥ずかしい思いやりに満ちた文章ですが、ご当人の了解が得られたので紹介します。
なお、写真はTさんが堺支局に在籍されていた翌年1981年ごろの議場風景で、演壇に立っているのは私です。
ふと、思うことがあります。もしこの国に、長谷川俊英さんという政治家が、あと何人か実在していたら、日本の政治の劣化は、今ほど深刻ではなかったのでは、ということです。この国に、長谷川俊英さんが一人しかいなかったことが悔やまれます。
私が堺で勤務したのは、たしか1979年から翌80年にかけての1年と少しの期間だったと記憶しています。念のため長谷川さんの経歴をネットで調べたら、堺市議選挙に初当選されたのは1979年とありました。ということは、私が堺にいた当時、長谷川さんはピカピカの1年生議員ということになります。
まさか、と思いましたよ。何故かというと、当時の長谷川さんは、知名度も存在感も行動力も、他の議員に比べて際立った政治家でした。とくに、たった一人で市当局や多数派与党を相手に市政の改革、議会制度の刷新を訴え、果敢に闘っておられました。その姿は 、新しい時代の到来を予感させる、市民期待の輝く旗手でした。私などは記者席で、その発言を一言も聞き漏らすまいと、必死の思いでメモをとっていました。それが新人議員だったとは、迂闊にも私は今まで気づきませんでした。
今、長谷川さんの『アクション日記』などを読んでいると、座右の銘として長谷川さんが好んで使われる言葉がしばしば出てきます。『現場に神宿る』ーー いい言葉です。現場に足を運ぶことの大切さは、政治家だけでなく新聞記者も同じで、駆け出し時代に先輩からまずたたき込まれる記者の基本動作です。
長谷川さんのばあい、初当選以来40有余年、80歳を超えた今も一貫して現場主義を貫いておられます。何度も現場に出向いて、市民目線で現場の声を拾い上げ、市民に届ける、が揺るがぬ政治姿勢です。長谷川さんの目線の確かさ、志の高さ、持続する力に私は共感し、万感の思いを込めて拍手をおくります。