clock 2021. 2
2021.2.8
5.5℃〜9.5℃。また、気温が下がり寒い日に。そして、夕方からは雨も。

発出時には昨日までだった緊急事態宣言は、3月7日まで延長。しかし、大阪府知事は「解除要請」の独自基準を定め、今日にもその基準(直近1週間の新規陽性者数が1日平均で300人以下の日が7日間く)が達成される模様です。
この基準自体が「緩やかすぎる」との批判もあり、もう一つの選択基準になっている「重症患者用の病床の使用率」は依然として高率で、医療関係者から「解除要請」に対する厳しい意見が出ているとのこと。吉村知事には、医療現場の声に耳を傾け、「イソジン騒ぎ」の轍を踏まないようにしてもらいたいものです。

さて、2月2日の日記に記した「ふるさと納税」をめぐる課税ミスについて、市税事務所から「明日記者発表する」との連絡がありました。その後の精査で、誤り件数なども少し変わるようです。

2021.2.7
5.5℃〜14.0℃。暖かい日でしたが、全日にわたってパソコンの前で勉強。

例年のこの時期、東京工業大学で2日間にわたって開催されていた「石綿問題総合研究会」が、今年はオンラインで1日限りの開催となりました。朝8時50分〜午後5時15分、途中休憩はありましたが、ずっと事務所のパソコンの前に座り続けて聴講しました。

午前中は、大気汚染防止法や石綿障害予防規則の改正とその後の状況、アスベスト汚染による健康リスク事例などについての報告。立命館大学の石原一彦教授が紹介した滋賀県野洲町の空き家分譲マンションでの被曝リスクの問題は、これからの大きな課題だと実感させられました。

午後は、国家賠償訴訟の動向と被害者救済、既存アスベストの調査・分析に関する報告があり、ジャーナリストの井部正之さんから珪藻土製品(ニトリ販売のバスマットなど)に含まれるアスベストに関する速報も発表されました。

最後に、10回目を迎える来年度の研究会の持ち方などについて、東京工大教授の村山武彦さんが問題提起。参加者との意見交換が行われました。

2021.2.6
気づかないまま、夜中から明け方まで雨だったようです。6.5℃〜15.0℃。

昨晩、途中から目にとまったNHKのテレビ番組=かんさい熱視線「"生きる教育"で心はぐくむ〜大阪・生野南小学校 4か月の記録〜」。今朝、再放送されたので、改めてみました。親の離婚、貧困、虐待など、厳しい家庭環境の中で、必要以上に傷つき、必要以上に頑張って生きてきた子どもたちをみつめる「生きる教育」。独自の教育プログラムを通して自己肯定感を育む教師たちの実践に、「教育の力」を実感しました。

2021.2.5
1.0℃〜11.5℃。森喜朗会長の暴言。「世界に恥を披露」の声も届いています。

午前中、17日から始まる2月定例会に提案予定の議案説明。条例改正20件のほか、新年度予算案、コロナ対策の補正予算案などの概要について説明を受けました。

またその前後に、土砂災害警戒区域の指定、PFIマニュアルの改訂、アーツカウンシル事業、レンタサイクル、中小企業支援などについて関係部局からの報告。
さらに、障害福祉部に調査依頼した事案の報告を受け、子ども青少年局には児童自立支援施設の整備に関する資料提供を求めて、ヒアリング。

2021.2.4
3.0℃〜10.0℃。曇り空だったせいか、昨日よりもなお寒く感じる日でした。

「今年の恵方は南南東」の掲示の横で、左手に豆まき枡を持って立っている大泉緑地の木彫りゴリラ。写真を撮っていると、通りかかった若いご夫婦から「鬼滅の刃や!」との声。なるほど、竈門炭治郎のコスチュームをまとい、耳飾りも付けています。足元の箱に入った「ゴリ子」は、妹の竈門禰豆子でしょうか。もっとも、ゴリ子がくわえているのは、口枷の竹筒ではなく好物(?)のバナナのようです。大泉緑地では紅梅が満開で、近くの周遊路にも芳香が漂っていました。

それにしても、またも本音暴言の森喜朗・五輪組織委会長の発言。「撤回」するというなら辞任も必然です。「夜の銀座クラブトリオ」、「首相長男の違法接待疑惑」など、恥ずかしくて耳を塞ぎたくなるような低劣でお粗末な事件の続発ですが、目を背けることはできません。

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2021.2.3
4.0℃〜7.5℃。気温が下がりましたが、「立春」。久しぶりに大泉緑地へ。

緊急事態事態宣言の1か月延長。ステイホームが続く体をなまらせないよう、大泉緑地を歩くことにしました。白梅が開き、季節は確実に春に向かっています。新金岡団地内の建替問題でご相談を受けました。また、「議会詳報@A」を作成。トップページからご覧ください。

http://syun-ei.com/

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2021.2.2
9.0℃〜13.0℃。124年ぶりに今日が節分とか。昨夜からの雨が朝まで。

泉佐野市が全国トップの498億円を集め、総務省とのバトルにもなった「ふるさと納税制度」。堺市では、この制度を利用して市民税の控除を受ける納税者が毎年増え、ここ5年で約10倍(約3万4千件)になっています。他自治体への寄付額に応じて市民税が控除される訳ですが、「その計算が間違っている」とのご相談を受けました。
調査のため、10日ほど前に市税事務所に足を運んだら、「今年の計算誤りは13件」と認めました。ところが、「過去は?」と問うと、まったく調べていないとのこと。

●4年で47件(減額必要39件255万余円/増額必要8件38万余円)
「直ちに調査すべきではないか」と指摘したところ、今日、その報告が届きました。その結果、13件と言っていた平成31年度分が21件となり、平成28年度分以後の4年間の合計は47件。その内、課税額を減額して返還が必要となるもの39件(返還額255万7100円)、増額して追加徴収が必要となるもの8件(徴収額38万5700円)と判明したそうです。
報告を受け、関係書類が残っている27年度分についても調査すること、その判明分はもちろん、市に保存資料がなくても納税者から証拠を伴う申し出があれば公法時効の5年を経過していても返還に応じるべきだと指摘しました。ちなみに、固定資産税の過大徴収については、2008年に議論して、民法時効の20年前にさかのぼって返還するよう改まっています。

※参考
アクション日記2008.9.25 http://syun-ei.com/hp_nikki008-2/nikki_658.htm
 
アクション日記2008.9.24 http://syun-ei.com/hp_nikki008-2/nikki_657.htm

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2021.2.1
2.5℃〜15.0℃。気温はさらに上がりました。ほぼ曇り空で、夕方から雨に。

学生時代からの友人で、「職業革命家」を自称していた小寺山康雄さんの訃報に接したのは昨年の春でした。2月19日に逝去し、21日に家族と少人数の友人で見送ったとのこと。「俺の葬式の必要はない」との遺志だったそうです。
その知らせは、「追悼集」への寄稿依頼と共に届き、このほど『激流に棹さして−想うがままに』(小寺山康雄追想・遺稿集)が刊行されました。

小寺山さんは1960年に神戸大学に入学。私も同年に立命館大学に入学し、それぞれの地で60年安保闘争にかかわりました。
卒業後、私は桃山学院大学に就職するという平穏な道を歩みましたが、彼は政治団体「統一社会主義同盟」の幹部(後に除名)などを務め、一貫して社会・政治運動に身を置いてきました。

私が寄せた「事務所に座ってくれているだけでいい!」と題する一文は、1993年の総選挙に挑んだ折、「俺は何したらええんや」と気遣ってかかってきた電話への返事から書き起こしています。

●学生時代からの厚い友情
神戸と京都という別々の地にいながら、いくつかの場面で共に行動したことがあります。当時の学生運動は、関西では「社学同」(ブント)と「統社同」(フロント)という政治団体がリーダーシップをとっており、京都府学連では委員長(京大・社学同)、副委員長(立命館大・統社同)、書記長(同志社大・社学同)と役職を分け合っていました。
その京都府学連委員長だった清田祐一郎さんが69歳で亡くなった2006年、小寺山さんが次のような追悼文を書いています。
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ぼくが清田と初めて出会ったのは大管法闘争の真只中である。60年安保闘争後、学生運動は沈滞し、全国学生自治会連合(全学連)も機能停止していたばかりか、主導権をめぐる不毛の対立を繰り返し、全学連とその傘下の自治会は四分五裂していた。そうした中で京都、大阪、兵庫の関西三府県学連は自治会機能も健在で、デモ参加者数は60年安保闘争時と比べてもさして落ち込んでいなかった。
当時、ぼくらは前年に共産党を離脱し、統一社会主義同盟(統社同。学生組織はフロント)を結成していたが、ぼくは統社同の全国委員、学生部長、兵庫県学連の委員長であった。その頃、清田から「相談したいことがある」と呼び出しを受けたのである。
市民派議員のパイオニアとして、今も堺市で頑張っている長谷川俊英(当時、立命館大学学友会執行委員長)とともに、ぼくは清田が指定した同志社大学構内の彼らのアジトに出かけていった。
アジトに入ると、ぼくと長谷川の周囲を、当時の学生運動用語で「暴力装置」と称していた体育会系の屈強な男数人が取り囲み、いきなりボス交(ボス同士の交渉)に入ろうとするではないか(まず相手を威嚇したうえで、ボス交と称する折衝をやるのが、ブンド特有の手法だった)。
これには長谷川が怒って「こいつら(暴力装置)を部屋から出せ。出さなんだらワシらは帰るぞ」と、一喝した。「暴力装置」どもは色をなしたが、清田は「わかった。出ていかすから話しあいを続けよう」と、折れたのは当然といえば当然の礼儀だが、清田はブンドの中では話の通じる男であることをこのとき知った。
(『現代の理論』06夏号Vol.8「想うがままに」から抜粋)
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私の記憶からはほとんど薄らいでいる出来事ですが、確かに清田氏は心を許せる相手でした。同時代に生き、共に闘った同志たちの永遠の旅立ちを心から悼みます。

▼「小寺山康雄追想・遺稿集」(画像クリック→拡大)

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