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《2025.6.7
6月7日(土)ほんの僅かの晴れ間と昼過ぎに小雨。曇り空の一日に。19.5℃~26.8℃。

▼大綱質疑で紹介=リヒテルズ直子さんの言葉①
いじめに関しては、オランダでも当然あります。そして、さまざまな対策プログラムが採用されています。いじめは、基本的に、子どもたちの中に育つ排他性(エクスクルーシブネス)が問題であり、その意味で、お互いの違いを平等に認め合うことで成り立つ民主的な市民社会の原則に大きく反するものです。同時に、いじめは、まだ社会性が未熟な子どもたちには起きやすいことで、類人猿の研究などからも分かる通り、人間においても集団の中で、誰がボス猿になるかという行動は、ある一定の時期に起きやすいことなのです。

民主社会は、そうした人間の動物的な本能に反する理性を育てなければ成り立たないものですから、基本的に、いじめは、そうした理性を促して、子供達を市民性を持って民主社会の一員として社会に送り出す準備として、単に、大人たちによる監視や防止という観点ではなく、子どもたち自身に責任ある行動とは何かという態度を育てることで、もっと大きな意味で、根本的ないじめ対策となるものです。
オランダはじめ、ヨーロッパ諸国におけるいじめ対策には、そういう観点が明確にありますが、日本の場合は、教員たちが学校の体面ばかりに囚われ、防止=監視になってしまっており、結局は、ケースバイケースの一時凌ぎにすぎず、根本的な解決につながっていない、それがために、文科省の調査結果が出るたびに悪化の一途を辿っているように感じています。
いじめについては、いじめられる子が受ける外傷は確かに問題ですし、最も大きな問題ですが、多くの場合、いじめる子が持っている家庭での背景なども大きく起因している場合が多いです。そして、本当に防止したければ、こうしたいじめる側の子供達に共通している何らかの家庭事情や社会問題にももっと焦点を当てるべきだと思っています。
さらに、市民性の観点から言うと、傍観者の行動がとても重要なのです。いじめが起きるときには、いじめている子と一緒に囃し立てたり一緒にいじめる子、また、いじめられる子を庇う子がいますが、集団の大多数は、いじめに関わりたくないと黙り込んでしまうのです。これは、社会の中で、差別など何らかの不条理が起きるときに、自分の身に何も降りかかってこないのであれば、知らん顔をしていたいという感情とほぼ同質のものです。
民主社会の「社会的関与(ソーシャルエンゲージメント(アンガジュマン)」は、こういう「自分には関係がないけれど、自分が属している社会でこういう不条理が起きていることについて黙ってはいられない」と言う人をどれだけ増やしていくかに関わっています。その意味で、学校でいじめが起きたときに、その問題を、どの子に対しても「自分ごと」として考えられるように促す役割が教員にはあります。しかし、こういう対策を行う学校や教員は極めて数が少ないと思います。

(続きは、明日の日記で/写真=高知市内で講演されるリヒテルズ直子さん=2024.11.6)

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