《2014.7.1〜2》
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※6月30日以前の日記は、前ページに掲載

月1日(火)「集団的自衛権」行使容認の閣議決定。とうとうここまで来てしまいました。

2012年12月総選挙で、私たちは自民党の大勝を許し、絶対多数の議席を与えてしまいました。以来、安倍政権は、したい放題。「平和の党」だった公明党も、自民党の「下駄の雪」から「下駄の鼻緒」になった(広原盛明さん)と揶揄されながら、籠絡されたようです。
「外務省が画策。防衛省OBには反対論が多い」との解説も聞きました。自衛隊への就職が敬遠されれば、次は徴兵制…。テレビの街頭インタビューでは、戦争体験者は「反対」です。若い世代の人たちがもっと危機感を持ってほしいと、切に思っています。
今日は「議員活動報告」をお届けするため、野遠町へ。午前と午後に分けて配り終えました。途中、缶ジュースの「お接待」も…。

地下鉄・北花田駅@A出入口で議会報告。今日のスピーチは、議員たちの海外旅行のことよりも、昨日、安倍内閣が行った閣議決定についてたくさん語りました。
1941年生まれの私は、4日前の誕生日で73歳になりました。生まれた年の12月に太平洋戦争が始まり、生家近くが夜間空襲に見舞われる光景を疎開先の山のお寺から見ていたのを覚えています。戦争が終わって帰宅したら、自宅の50メートルほどのところまでの家屋が焼けていました。祖母から、米軍機の機銃掃射で命を落としかけたという恐ろしい話も聞きました。
小学校に入学したとき、何人もの級友の父親が戦場で死んでいる事実も知りました。職業軍人ではありません。会社でまじめに働いていた人、商売に励んでいた人、懸命に田畑を耕していた人など、ごく普通の市民が召集令状で戦場にかり出されて命を失ったのです。
ちなみに、私の妻の家族は旧満州で終戦を迎えました。幸い一家離反は免れましたが、父母と4歳年上の姉と4人での逃避行は命からがらだったと聞かされています。父は2歳だった妻をリュックに入れて背負い、母の胎内には臨月の妹もいたという話です。
人と人とが殺し合う戦争がどんなに悲惨のものであるのか。それを体験した人たちは、戦後日本の礎となった平和憲法を大切に育ててきました。来年は戦後70年。私の人生そのものでもあります。政治を担う人たちの多くが戦争を知らない世代に移り、憲法9条がまるで邪魔者のように扱い始められたことに危惧を覚えていました。そして昨日、安倍政権は、歴代自民党政権の9条解釈を覆して、海外での武力行使=戦争を可能にする閣議決定をしました。
世論の多くがこれに反対し、少なくとも「そんなに急いで決めることではない」と考える人が多数であるのに、強引に事を運びました。その背景は、一昨年12月の総選挙での自民党の圧勝にあります。国会で多数議席を占めれば何でもできる…と考えているのでしょう。

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堺市議会での議員海外旅行の復活も同根です。市民の批判がどのようにあろうとも、数さえあれば議員特権を行使できる…そんな思い上がりが蔓延しています。もしかしたら、「今回はウェリントン市長の招待状という大義名分がある」と思い込んでいるのかもしれません。しかし、市民の皆さんは日頃の議員たちの行状を見抜いています。
そんなスピーチがご通行中の皆さんに響いたのでしょうか。受け取っていただいた「議員活動報告」の数は、前回の1割増し。この1年間でも最高部数でした。

月2日(水)憲法9条の勝手解釈で海外での武力行使…駅前スピーチに大きな反響。