《2015.12.7》
(1627)

※12月6日以前の日記は、前ページに掲載

堺市民が日本で初めての政治倫理条例を誕生させようと試みた1982年夏、条例作りに知恵を貸しいただき、住民運動を応援して下さった篠原一先生(当時・東大法学部教授)が、10月31日に逝去されました。今日、東京で「お別れ会」が催されたので参加。出席者に配られた『篠原一著作目録(1952-2015)』に掲載されていたエッセーの言葉にまた教えられました。
▼以下は、その抜粋です。

12月7日(月)大阪では暖かい日と思っていたのに、東京の夜は寒い風が吹いています。

●小さなユートピア
現在「改革」というと、もっぱらネオ・リベラルに沿った効率本位の「改革」だけをイメージして、人間らしい生き方とは何かという観点を忘れてしまう。「改革」という言葉が汚染されているのだ。(中略)いまもっとも必要なものは、競争と利益の追求ではなく、他者の権利の尊重のうえに立った、市民的な公共性なのではないか。環境問題、地球温暖化はもちろんその延長線上にある。とすると、「官から民へ」ではなく、「民から公へ」がスローガンとなる時代がやがて来るにちがいない。21世紀は、平和と人権と、そしてこの「社会的なるもの」(social-ism)を記念する年を歴史に刻むことができるであろうか。
(『生活経済施策』「明日への資格」2008年1月号)

●無痛覚症(アナルゲシア)の克服
病理学にアナルゲシアという言葉がある。辞書をひくと、無痛覚症あるいは痛覚喪失という現象である。人間は自分の身体や精神に攻撃が加えられると痛みを覚えるが、何らかの理由でそういう苦痛を感じなくなってしまうことがある。(中略)
子どもかかえながら職を失い、アルバイトに精出さなければならなくなったシングルマザーが、強いリーダーシップを期待して小泉自民党に投票したという記事を読んで、はっとした。最近では、もっぱら犠牲の対象にされている老人の場合も同様である。近代の原理からいえば、仲間と組織をつくって自分の主張を貫いていくべきところだが、個人が原子化した状況のもとでは、むしろポピュリズムに救いを求めるか、あるいは政治から退場する。これは、人間が思考し、想像する力を失い、スティグレールのいう「象徴の貧困」という状況が増進する現代情報社会の特徴であるかもしれないが、それにしてもわが国は世界的にもアナルゲシアの最先端にあるのではないか。われわれは痛みを痛みとして感ずるような社会をはやく回復しなければならない。(中略)
小泉内閣が基盤をつくり、安倍内閣が戦争のできる体制を築き、さらに新しい人が実行するというような形になりそうである。歴史はそう簡単に繰り返すものではないが、人間はあやまちを繰り返す。ざくざくという軍靴のひびきが近づきつつある。戦争のもつ痛さは忘れられ、ナショナリズムがもてはやされる状況は、これまたアナルゲシアの典型的な現象である。
(『生活経済施策』「明日への資格」2007年2月号)
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篠原先生がこの文を書かれた2007年、安倍首相は参院選での敗北と体調の悪化を理由に辞職。その2年後には先生がずっと期待をかけていた政権交代が実現したものの、5年で蘇った安倍内閣が「新しい人」の役割さえ担うことになると予測されたでしょうか。
ともあれ、文中にある「シングルマザー」の挿話は、いまややりたい放題とも言える自民党政権を長らえ、大阪では維新の会の圧勝をもたらせている原因です。学徒出陣の経験もある篠原先生の遺訓として心に刻み、“アナルゲシア”から脱出できる道を懸命に探したいと思います。

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