金岡北中学校で催された、創立70周年記念式典にお招きを受けて参加しました。1947年の新教育制度発足に伴い「堺市立第9中学校」として創設された同校は、1950年に「金岡中学校」と改称。分離して金岡南中が誕生した1977年に、「金岡北中学校」となりした。
分離の原因は、1966年に町開きした新金岡団地への入居者が増え、同校生徒も以来増加の一途をたどったことです。1976年10月発行の「こんにちは!」新聞(76号)には、最大となった同年10月6日の体育大会の様子が報じられています。
●「71クラス・3094人」…“日本一のマンモス校”
掲載した写真のとおり、グラウンドの奥には急場しのぎのプレハブ校舎が写っています。その前に、生徒たちが学年ごとに集団をつくり、最前列に並んだ1年生のプラカードは、「27組」まであったことを示しています。
当時、この地域新聞の発行責任者だった私が写真を撮りながら耳にした司会のアナウンスは、「日本一のマンモス校、71クラス、3094人、堂々の行進」と誇らしげでした。
しかし、超過密校の弊害は歴然で、卓球部の部活中に生徒が死亡するなど、悲しいニュースを記事にしたこともありました。裁判になったこの事件は、卓球台が足りず、1年生の練習は「体力づくり」のランニングなどがほとんどだったため、炎天下の道路で起こりました。
●あらため見直した「市立図書館」の役割
ご紹介した「こんにちは!」は、1970年8月に団地住民の仲間で創刊した地域情報紙です。市議になるまでは私が発行責任者でした。ところが、我が家には5周年のときに製本した66号までしか残っていないのですが、北図書館がきちんと保管してくれていました。杉田館長の話によると、以前にこの図書館に赴任していたとき、私の事務所を訪ねてきて資料収集。1部だけだったものはコピーして製本の上、地域資料として所蔵してくれていたのです。