東日本大震災と東電福島第一原発の事故によって大きな被害を受けた福島県では、6年を経ても、なお12万人を超える人々が避難生活を余儀なくされています。
日本政府は、放射線量が高い「帰還困難区域」を除いて、避難指示を相次いで解除。解除日は福島県の飯舘村、川俣町、浪江町が3月31日、富岡町が4月1日でした。
●富岡駅前の整備は進められているが…
先週、第一原発が立地する大熊町や隣接の富岡町などを訪ね、その実際の様子を見てきました。上の写真は3年前の訪問時に撮ったJR富岡駅。駅構内には津波で流れ込んだ乗用車が放置され、近くにもたくさんの自動車が転がっていました。ところが、現在は設置場所を移転させて駅舎の工事が始まり、周辺の被害建物は撤去。駅前広場が作られるなど、景色は一変していました。しかし、町内商店街の家屋は壊れたまま、商品や家財は度重なる盗難被害を受けています。放射線量への不安もあって、人々の帰還意識は高まっていないようです。
●人影が見えなかった浪江町
昨日は、相馬市、南相馬市、浪江町など第一原発の北に位置する地域を訪ねました。相馬市では復興住宅の建設が進むものの、未だに仮設住宅での暮らしも続いています。
3月31日に避難指示が解除された浪江町では、地震被害を受けた住宅が放置され、割れたガラス越しに覗くと、14時46分すぎで止まった時計もそのまま。野生動物に荒らされた室内が無残です。震災前に整備が進められていたという商店街でも、歩いている人も、何かをしている人も一切その姿を見ませんでした。通行車両はほととんどなく、ひんぱんに出会うのは警戒中のパトカーだけ。堺市に避難されているという方のお宅(表通りの商店)も閉じらたままです。
●あらためて感じた「脱原発」
バスツアーやレンタカーで訪ねた広大な地域には、美しい自然があり、人々の日々の暮らしもあったはずです。偽りの「安全神話」によって、その全てを破壊した原発事故の責任は誰がとるのでしょうか。26日〜29日の福島訪問の日記をまとめながら、心は沈むばかりです。