《2017.5.2》
(1853)

※5月1日以前の日記は、前ページに掲載

月210.3℃〜23.8℃。朝は昨日より4℃以上低かったのですが、半袖姿も…

JR百舌鳥駅前で議会報告。大型連休の狭間で、通勤される方が少ないのでは…と、やや不安でした。しかし、受け取って下さった「議員活動報告」の数は前回よりも多く、百条委員会に関するスピーチはよく聞いて下さっているようでした。

●東電の原発事故は「餓死」でも命を奪った!!
さて、相馬市からの被災地ツアーで最後に訪れた浪江町の請戸地区は、東電福島第一原発から北へ6qに位置します。ぎりぎり近づいて戻ってきた道路の先には、事故を起こした原発の排気塔が見えます。また、手前に見えるいくつもの緑色のシートの下は、除染廃棄物が入ったフレコンパックが山積みされています。
戻り道には、センターラインが約4メートルずれた断層がそのまま残っていました。あたりは津波被害のため全滅状態で、見かけた僅かの建物も無残な姿です。
この地区では、震災直後に助けを求める人の声が聞こえたのに、原発事故で避難を余儀なくされ、救助活動ができなったとのこと。NHKのニュース(2012.3.5)が、次のように報じました。
▼東京電力福島第一原子力発電所の事故で設定された福島県の避難区域内で、自宅などに取り残されて餓死した疑いの強い人が少なくとも5人いることがNHKの取材で分かりました。警察や遺体の状況を調べた医師は、自力での避難や助けを求めることができず、取り残された可能性があると指摘しています。(中略)
▼震災直後に避難区域で救助活動に当たっていた複数の消防団員は、避難指示が出て救助活動が中断されるまでの間に助けを求める声を聞いたと証言しています。
▼このうち津波で125人が死亡した福島県浪江町の請戸地区で救助活動に当たっていた浪江町消防団員の高野仁久さんは、震災当日の夜、がれきの中から助けを求める声や、物をたたいて居場所を知らせようとする音を聞いていたということです。高野さんは、応援を求めにいったん役場の詰め所に戻りますが、機材も人員も足りず、大津波警報が引き続き出されていたため、町の判断で救助活動は翌朝に持ち越されたということです。
▼しかし、翌日の朝、原発から10キロ圏内に避難指示が出されたため、救助活動に向かうことができず、住民の避難誘導を優先せざるをえなかったということです。これについて高野さんは、「あのとき、『あす助けにくるから待ってろよ』と声をかけてきたのに、結局、救助に行けなかったことを今でも後悔している。原発事故がなければ何人もの命を救うことができたのではないかと無念に思う」と話しています。

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