この法律が提案されるまで、あるいは提案後の国会審議において、相当な議論があったことはご承知のとおりであります。議論の中心はいわゆる日の丸・君が代が戦前から用いられてきたことに起因をいたしております。
 特に、第二次世界大戦時において国歌に対する国民の忠誠心を表す対象とされた日の丸・君が代、そういう歴史を背負っていることから、国旗・国歌の取扱いを誤れば「自国のことのみに専念し、他国を無視する」偏狭な国家主義に陥る可能性があり、再び戦争の惨禍を招くことになる恐れを案じたことにあったと思います。 
 このような国民の心配を払拭するために、この法案の提案理由について、当時の野中官房長官は衆議院本会議において「法制化に伴い国旗に対する尊重規程や侮辱罪を創設することは考えていない。国民生活等における変化に関しては、法制化にあたり、国旗の掲揚等に関し義務付けを行うことは考えておらず、したがって、現行の運用に変更が生ずることにはならないと考えている。」と本会議で説明を行いました。その説明のとおり、この法律は国旗を日章旗・国歌を君が代とするだけを定めた法律となったわけであります。
 このようなことから、国旗掲揚や国歌斉唱がどのような場面において実施されなければならないのかという規範は存在しないというふうに私は考えております。
 私がこだわり、そして恐れているのは、国や自治体など公権力が一つの価値観を人に強要する社会であります。人の内面・精神的自由に公権力が介入する社会は、人間にとって最も重要な価値であります自由を奪われるという意味で基本的人権を犯す悪しき社会であると私は思います。他方、基本的人権を保障するための政治形態としての民主主義を実践する場面でも極めて危険な社会でもあります。
 人間というものは判断を誤ることがあります。しかし、間違いをできるだけ少なくし、また間違ったときに、これを正す力を備えているのが人間であります。その過程が発展の契機であるということもできると私は思います。
 しかし、誤りを避ける力を減じ、あるいはこれを失わせるのが人々の精神的自由が奪われた時であると私は思います。正しいと思ったことを発言できず、疑問に思ったことも質することができない人々がそこにあらわれます。人々は精神的自由を失った瞬間に、批判能力を失い、そこに危うい社会が出現すると、私はこのように思います。
 私は、日本が第二次世界大戦を回避できなかった、そして、自国他国を問わず、あの様な悲惨な結果を招来した最大の原因は、国民に精神的自由が保障されていなかったからであると、このように考えます。
 そして、私たちは日本国民がその痛恨の結果の挙げ句、ようやく手に入れたのが、日本国憲法であると、私は思います。
 日本国憲法は、私たち日本国民が第二次世界大戦を抑止できなかった原因を、日本が多様な価値観を認めない社会であったことや、民主主義が機能しなかったことに求めていると思います。そのうえで、再び戦争の惨禍を起こすことがないようにするために、精神的自由を中核といたします個人の尊厳が、国政上最大の尊重がなされる必要があるということを宣言したのだと私は思っております。
 私は、戦後生まれでありまして、また片田舎で生まれ育ったことから、戦争の惨禍を直接体験したことはありません。白い服を来た傷痍軍人をたまたま見かけた時にドキッとする以外、高校卒業まで日本がなぜ戦争当事者になったかなどと、考えたこともございません。
 小学校に入学した時から私は、父親から祝日には日の丸を掲げる仕事を命じられました。祝日には朝、早く起きて小さい玄関でありましたけれども、きれいに掃き清め、竹竿の先に金の玉を飾り日の丸を玄関に立てました。近所の人に誉められました。小学校の通学路に神社がありました。母親から神社の前を通る時には帽子を取ってお辞儀をすることを教えられて、私は素直に実践しておりました。通りがかりの人に誉められました。いい子だと。中学校の時には、ブラスバンド・クラブに所属いたしまして、行事のたびに君が代を演奏しておりました。
 高校に入学してからは、戦争のことなどあまり考えず、また勉強もろくにせず合唱部で歌ばかり歌っておりました。しかし、大学に入りまして、この日本国憲法制定過程に深く関与しておりました佐藤功教授に憲法学を学んだその時から、この憲法が大切にしている原理である自由を尊び、そして民主主義を重んずる精神が、戦争の惨禍を踏まえて制定されたことを学び、その実践なしには再び戦争の惨禍を招来する危険があることを認識できるようになりました。その時から、私は自由主義者・民主主義者になることを志しはじめたと思います。
札幌市長・上田文雄さんの市議会での答弁の一部