《2004.10.15〜17》
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※10月14日以前の日記は、前ページに掲載
10月15日(金)先日、お隣からザクロを頂きました。いつの間にか秋が深まっています。
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「新金岡駅は@号入口だけでいいのですか?」。事務所のスタッフに促され、今朝はA号、B号入口でほぼ1年ぶりの街頭活動。やはり多くの激励をいただきました。
ところで、美原町議会での議長の暴言について、名指しで中傷された住民が、昨日、名誉毀損で提訴。そのことを報じる毎日放送のテレビニュースで、当の議長は、「頭にきとったから、ついそれは…逸脱してはならないことかも分からんけど…それは、そういうところに走ったわけ。猿も木から落ちる、弘法も筆の誤り…ということもあるんやから」と述べ、暴言の事実を認めました。
※泉州焼の器は、今木良彦さんの作品
その上、取材の女性記者に対して、「だから、お茶の一杯でもね、またこんど心斎橋で。あんたのきれいな顔をまじまじと、またもう一度、再度拝見しながら…」。議場外とは言え、美原町の議会では、こんなに野卑な「議長発言」が許されるのでしょうか。懲りない人です。
朝刊で、水俣病関西訴訟に対する最高裁判決の記事を読みながら、思い出すことがたくさんありました。1970年に団地新聞「こんにちは!」を創刊したころ、堺のまちは臨海コンビナートによる大気汚染公害に侵されていて、「反公害」が新聞発刊テーマのひとつでした。71年7月号で映画「水俣」を紹介。72年4月に金岡北中で催した上映会には200人の住民が参加しています。その折りに届いたカンパや救援物資を携え、同年5月4日に初めて現地入り。チッソ工場前の座り込みテントや何軒かの患者さん宅などを訪ねました。もう32年にもなります。あのときお目にかかった皆さんはいまどうしていらっしゃるでしょう。それにしても、認定第1号患者の発症は1953年12月。51年後の最高裁判決に至るまで、自らの責任を認めず、何の落ち度もない患者さんたちを苦しめ続けた「行政」とは、一体何なんでしょうか。
さて、格段に質が違うとは言え、行政の「いい加減さ」が噴出している美原町。その町議会議長の発言は波紋を広げ、このホームページの「掲示板」にも投稿がありました。
「MBSニュースをインターネットで見ましたが、肥田美原町議長の女性記者に対するお茶行こかのところは抜けていました。アクション日記読んで笑いました。合併後は市議として揺さぶってやってください。それと、さつき野と新金岡間のバスたのんます」(美原町民その一)
きょうは午前中、新金岡親子剣道クラブの総会。夜は地元自治会の幹事会。昼間は、明日開催する市政報告会の準備など。
10月16日(土)わが家のキンモクセイ、今年は花も増えて、芳香を漂わせ始めました。
10月17日(日)天気、気温とも、「絶好の行楽日和」。各地で秋を楽しむ行事が…
昨年3月まで勤めていた桃山学院大学で、初めての「ホームカミングデー」が実施されました。卒業生や教職員OBなどをキャンパスに招き、地域住民も含む交流によって、大学の現状を理解してもらおう…というのがこの催しの目的のようです。開会礼拝や開会式に参加した後、現役・OBの教職員や顔見知りの卒業生たちと懇談しましたが、私がキャンパス内に居た午前中に限って言えば、参加者の数は少々さびしいという印象でした。
午後は、新金岡公民館での市政報告会。ご参加下さった地元の皆さんなどから、生活に密着した問題がたくさん提起されました。ところで、きょうは「堺まつり」の本番です。市政報告会が終わった後、急いでザビエル公園の「南蛮市」に駆けつけ、気になっていた本宮町のテントなどを訪問。こちらは人出が多く、郷土物産もほとんどが売り切れ状態でした。