7月11日(水)装いがどんどん変わる「ランタナ七変化」は、毎年元気に咲いてくれます。
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《2007.7.11〜13》
今朝は、予報どおりに6時から雨が降り始めたので、あまり迷わずに街頭活動は中止。しかし、2日連続して実施できなかったため、多分にフラストレーション気味です。
少し早めに登庁して、たまっている資料整理。そして、障害児を育てていらっしゃるお母さんたちと市当局との話し合いに同席しました。この会合は、市教委の放課後子ども支援課、子ども青少年局の子ども家庭課、健康福祉局の障害福祉課の各課長らが出席して、3局にまたがる障害児施策について保護者と懇談するために準備したもの。
このように、局の異なる複数課が揃って市民の方々と話し合うのは、昨年12月13日に続いて2度目です。いわゆる“縦割り行政”のために具体的な解決策が実現されにくい問題について、各局各課が同じ席で当事者の話を聴き、まず共通認識を持ってほしいと思って機会をつくりました。そして、3月の議会の大綱質疑で、障害児教育や保護者支援の施策策定に関係各局が連携して当たるべきだと主張しました。きょうの会合では、子ども青少年局子育て支援部が、近々、障害児の保護者を対象としたアンケート調査を実施し、まず実態把握に努めることが伝えられ、お母さんたちも話し合いの成果を確認することができたようです。
7月12日(木)台風接近で梅雨前線が刺激されるとか…被害がなければいいですね。
遅れていた北花田駅@A出入口での議会報告を実施しました。天気予報では6時から小雨が続くことになっていたのですが、降り始めは8時25分。予定どおり8時半までの街頭活動を終えることができました。きょうは、主に@出入口付近でスピーチ。A出入口に比べると馴染みが薄いのですが、たくさんの方々からエールをいただきました。
実は、ここまで書いて新幹線で博多に向かいました。夜半過ぎ、妻の父が亡くなったとの連絡があって、妻は始発の地下鉄から朝一番の博多行き列車に乗り継いで先に発ち、私と息子や娘一家も通夜式の行われる葬儀場に駆け付けた次第です。1907年2月11日生まれの義父は、100歳の誕生日以後も元気にしていたのですが、6月18日に自宅で骨折して入院。妻も2週間ほど帰郷して、5人の姉妹が力を合わせて看病に当たっていました。症状が落ち着き、リハビリに移ることを確認して数日前に戻っていたのですが、容態が急変したそうです。もっとも、高齢故にそんな事態が起こりうることは覚悟していました。最後まではっきりした自己主張を貫いた義父でしたから、100歳5か月でその生涯を閉じることも、自分自身の意思で決めたのかもしれません。その見事な生き様を思い起こしながら、通夜式での親族挨拶を述べました。
7月13日(金)昨夜来、福岡では激しい雨が降り、時折雷鳴もとどろきました。
義父の葬儀式を執り行いました。きっと昨夜も眠らずに書いたのでしょう。「父の生涯」を綴った文章を、朝、妻に頼まれてホテルのOAルームで清書。葬儀の席で、妻はそれを読みました。独習・独学でバイオリンを弾いた青春時代。関東軍将校としての旧満州での暮らしから、幼い娘2人(そのとき妻は2歳)と身重の妻を連れての敗戦による逃避行。帰国後、苦労した生活基盤の構築。65歳から造り上げてきた終の棲家は、清流やたくさんの自然を取り込んで、孫やひ孫に思い出をいっぱい残させました。何事にも強い意思で立ち向かい、理想の設計図を描いて実現を図ってきた義父を偲んで、たくさんの方々がご参列下さいました。