《2003.2.20〜23》
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2月20日(木) 不安定な天気で、昼過ぎにはみぞれ混じりの雨も……
※2月19日以前の日記は、前ページに掲載
「アクション日記」のはじまりへ
上野芝向ヶ丘町のTさん宅にて、ホームミーティングを開いていただきました。ご参加下さった方の大半は主婦です。「政治家」や市政への苦言をたくさん頂戴しましたが、自分たちが「納税者」として行動すべきこともご理解いただけたようです。お世話を下さったTさんご夫妻とお嬢さん、ありがとうございました。ホームページのアクセス・カウンターが、今日、5000を超えました。昨年9月3日のアップロード以来、170日目です。
2月21日(金) 梅の開花は、同じ地域でも樹種によって異なるのですね…
20年前の今日、堺市議会の「倫理条例等審査特別委員会」(全議員構成)が、日本で初めての「政治倫理条例」を可決しました。その様子を、拙著『市政と政治家がこんなに変わる』(1990年・学陽書房)に次のように書いています。
○そして住民運動が勝利した
 2月21日の第9回特別委員会は、すでに固まった修正案と、修正部分を除く原案を可決するという手続きのための委員会であった。堺市議会始まって以来の住民による直接請求の条例、しかも議員らの政治倫理に関する条例の採決ということで、採決方法はこれも異例の記名投票を選んだ。反対派は「記名」に抵抗したが、もう問題にならなかった。この採決で、賛成派の1人がうっかりまちがって反対票(賛成は白票、反対は青票)を投じるハプニングがあり、賛成38票、反対12票となったが、本会議での正式表決数は39対11(議長と欠員1を除く)となる。
 採決の前の各会派の討論で、予定された最後に演壇に立った私は、保守系会派による反対意見や、条例の成立を阻むために提案された別の修正案への反論を丹念に行った。草稿も準備せずに上がった演壇だったが、このときの一時間近くの「演説」は、いまでも発言の部分部分を再現できるほど鮮明な記憶を残している。それは、市政浄化を市民の手で達成するという以外には何の報酬も期待せず、一年間ひたすら手弁当の運動を続けてきて、いま固唾を飲んでその労苦が報われる瞬間を待っている、満員の傍聴席の市民の声を代弁したものだった。この日ばかりは、委員長もさすがに制止することができなかった傍聴席からの拍手を受けて、私は降壇した。
汚職で有罪判決が確定した市議の居座りをやめさせるために、市民が智恵を絞った直接請求の条例に賛成した議員は、当初は、条例案づくりにも参加した私ひとりでした。多くの市民の関心と注目が政党議員の態度を変化させ、この日の逆転採決をもたらしました。
文字どおり、市民が市政を変えたあの日を思い起こしながら、今朝は、JR堺市駅前で街頭活動。この駅は、地下鉄開通以前のホームグラウンドです。懐かしいお顔を拝見し、またたくさんの激励もいただきました。
2月22日(土) 沈丁花が開き始めました。昼前から雨になって、気温は上がりません。
雨にもかかわらず、夜勤明けのFさんはじめ、何人ものボランティアの皆さんが事務所に来て、それぞれに仕事をこなして下さいました。
また、カンパのお礼を申し上げるため電話を差し上げたKさんからは、とてもうれしいお話を伺いました。北花田駅から出勤されるお子さんが、19日朝の街頭活動の様子をご覧になって、「ボランティア・メンバーの目が輝いて、熱気に溢れていた」と感動しておられたのこと。あの日は、前回の2倍の人たちが「ニュース・レター」受け取って下さったし、確かに、いつもは敬遠気味の若い女性の通勤者への広がりも実感しました。早朝から駆けつけて、一所懸命にお渡し下さっているメンバーの皆さんに喜んでもらえるご評価です。
2月23日(日) 雨は上がり、玄関先の沈丁花がほのかな香りを放ちはじめました。
正午から、泉ヶ丘駅前で3週間目の街頭活動。時間は50分ほど長かったのですが、「ニュース・レター」を受け取って下さった方の数は、前回の約2倍になりました。